2020年10月9日

【誠のFACT】幕末のイノベーター、島津斉彬に学ぶ経営哲学

(湯浅 誠/カクタス・コミュニケーションズ株式会社 代表取締役)

 

9月のシルバーウイークに鹿児島へ家族旅行に行ってきました。日本全国あらゆる土地を出張で訪れましたが、九州は特に好きで、出張が楽しみな地域の一つです。その中でも特にお気に入りの場所が鹿児島です。「いつか子供たちを鹿児島に連れていきたいな」と常に思っており、数か月間にふるさと納税を調べていたところ、学会の展示会で何度か会場になっていた城山観光ホテルという由緒ある素敵なホテルの宿泊券が返礼品にあったので、そちらを利用して鹿児島旅行を満喫してきました。

普段は出張の隙間時間に街中を少し観光する程度だったので、鹿児島に対していい印象はあっても正直街のことはよくわかりませんでした。西郷隆盛の軌跡をめぐる散歩をしたこともありましたが、歴史や地理を深く知らないためか、これまで鹿児島という土地の面白さは点だけ追っていて線で繋がることはなかったと思います。しかし今回の旅は、鹿児島について事前に勉強し、予備知識をもって行ったので、普段よりずっと面白い旅になりました。

私はNHKの「ブラタモリ」という、全国各地をタモリさんが巡って専門家が歴史や地理の解説を聞く番組が大好きなのですが、今回の主な資料はその「鹿児島編」でした。番組では、鹿児島の地理、カルデラ、歴史を網羅していたのですが、その中でも凄く印象に残ったのが鹿児島市外れにある島津家の庭園である仙厳園でした。恥ずかしながら学生時代に歴史をまともに学んでいなかったので、薩摩藩といえば西郷隆盛か大久保利通しかすぐに出てきません。島津家の名前は聞いたことはある程度。この仙厳園を語るうえで欠かせない人物がその島津家の島津斉彬(しまずなりあきら)なのですが、番組で庭園の紹介を聞きながら、彼がこの庭園で行っていた数々の偉業を知り、この人物の虜になってしまいました。

島津斉彬は、開国以前の日本に革新的な技術を次々と取り入れた人物です。江戸末期にこれほど革新的な考えを持ち、時代の先を行く行動をしていた人がいたとは。今の私たちが学ぶべきは、斉彬のような型に囚われず、積極的に新しい技術を取り入れた人ではないか。そう思い、今回自分が鹿児島旅行で島津斉彬について学んだことを記事にまとめてみることにしました。

(1)蘭書を読んで大砲作り。幕末に存在した天性のイノベーター

島津斉彬は江戸時代後期に活躍した幕末の大名で、薩摩藩の11代藩主、島津家の28代当主を務めた人物です。実は当時一介の下士階級出身であった西郷隆盛や大久保利通を見出して、朝廷で登用した時代の立役者でもありました。

彼が活躍した幕末は、倒幕やら、欧米から開国を迫られるやらの、まさに文字通り “Change Or Die” 、変革か死かの時代でした。日本の最南端にある鹿児島は、実は黒船が下田に来るかなり前から欧米列強の脅威に晒されており、どこよりも強い危機感を持ったいたようです。薩摩藩は琉球王国を統治していたので諸外国の情報が一番早く入ってくるという土地柄もあり、斉彬は当時の最先端技術を自ら蘭書から学んで、富国強兵に尽力していたようです。

大変びっくりしたのが、当時日本に存在すらしていなかった大砲を蘭書に書いてある説明書から見よう見まねで作ったエピソードです。、島津家の持っていた仙厳園に大砲工場を建ててしまい、何度も何度も失敗しながら最後には本当に作ってしまった。今なら「それくらいできるでしょ」と思えますが、当時日本はまだ侍が刀で戦をしていた時代です。今の世の中で考えると、インターネットがなく英語がわからない国の一地方の領主が、アメリカの最先端AI技術に関する紙の論文を一本だけ英語で入手して町工場の作業員を集め、辞書を引きながら論文を解読して再現するような感じでしょうか。今であれば破格の給料を提示してアメリカから優秀な専門家人材を手に入れることも、まるごとAI企業を買収する事もできるかもしれませんが、これは江戸時代の話です。専門家もいなければ、仕組みもわからない大砲を、見様見真似で素人集団が作ったというのは「やると覚悟して、その気になってやれば意外と何でもできてしまう」というわかりやすい例でしょう。

 

(2)商人としても大成功!島津斉彬に学ぶ行動第一主義と本質志向

島津斉彬の功績はそれ以外にも国内初の蒸気船、薩摩切子の事業化など数多く、いずれも現代に繋がる産業革新であり、領主としてだけでなく商人として数々の偉業を成し遂げました。これもすべて蘭書などから知見を得て、実際に試行錯誤していった結果だというのだから驚きです。当時を生きていないので何ともわかりませんが、彼はおそらく欧米人にできて自分たちにできないものがあるはずなどないと本気で思い、蘭書から次から次に知識を吸収し、それらをすぐに部下と共に実行していったのだと思います。当時の斉彬の右腕の人たちに話を聞けたら、きっと「社長に無理難題を次から次へと突き付けられて本当に死ぬかと思いましたよ。いやー、大変でした。ただ実際やってみるとこれが何とかなるもんなんですね。大変だったけど終わってみると社長が正しかったというか、彼には先が見えていたんでしょうねぇ」なんて答えるのかもな、と想像しました。

この時代ではありえない程の柔軟さと自由な発想の持ち主であった島津斉彬。薩摩藩が倒幕であれほど重要な役割を担うことになった基礎は、彼によって築かれたとも言われています。西郷隆盛や大久保利通の起用も、物事を達成するためにはどんな人材であろうと適材適所で起用しやりのけるという、行動第一主義と本質思考のなせる技でしょう。こんな人が江戸末期の鹿児島にいたことを知れただけでも意味のある旅行でした。

(3)斉彬が現代に生まれていたら?経営者のヴィジョンが変える社会

島津家はその後「島津興行」という会社を立ち上げ、今でも鹿児島の名士のようですが、全国規模の会社ではありません。現在の事業内容を見ると、斉彬が江戸時代に始めた事業とそう大きくは変わらないようです。会社には優秀な人材が不可欠で、そこで働く人々の活躍なくして成長はできませんが、同時に会社のトップが持つヴィジョンの大きさを超える会社を作ることは決してできないものです。もし斉彬が当時の欧米列強を見て尻込みし、日本はあんな国々には追いつけないと諦めモードになっていたら、そもそも今の島津興行は立ち上がっていなかったと思います。その前に薩摩藩が歴史の中心にさえならなかったかもしれません。

島津興行関係者の方がもし読まれていたら申し訳ありませんが、斉彬が戦後に生まれていたら、今の島津興行は大企業になっていたのではないでしょうか?江戸時代より現代の方が、遥かに彼の夢を実現できる可能性があったはずです。飛行機を作ろう、ビルを作ろう、街を作ろうと言い、自ら音頭を取って実現していたと思います。日本一のコングロマリットである三菱グループも幕末から始まった会社ですが、島津家は既に鹿児島での地盤があったので岩崎氏より有利になれたはずで、同じような規模になりえたと思います。

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とんでもなくでかい夢を持ち、自らも先陣に立ち偉業を成し遂げた斉彬の仙厳園書斎から桜島を眺めながら、私自身も「俺もがんばろう」と一人決議集会をしていました。当時と比べると比較にならない程、世界中の情報が簡単に入手でき、人材も豊富、そして仮に失敗して財産は取られたとしても命を取られることはない現代で、どんなリスクがあり、何を恐れる必要があるでしょうか?私の尊敬する現代の偉大なイノベーターであり経営者、ソフトバンクの孫社長も毎日そんな気持ちで仕事をしているのかもしれません。いつの時代も世の中を変える人は、夢が大きい人達なのだと改めて思いました。

旅は事前にその土地について勉強していくと、現地では倍楽しむことができるなと実感したのも今回の気づきでした。子供たちがもう少し大きくなったら一緒に事前学習をして、彼らと一緒に日本の歴史や文化についてたくさん触れたいと思いました。

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